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サーカスの歴史・・・イギリスが本家(元祖)だったんだ・・・

サーカスに行ったから・・・調べてみた!  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サーカス(circus)は動物を使った芸や人間の曲芸など複数の演目で構成される見世物。一般的に円形劇場や天幕などで催され、舞台を群集が取り巻いて見下ろす形態が取られる。古代エジプト時代に始まり、ローマ時代にその原型がなされた。また、近代サーカスの原点としては1770年のイギリス「アストリー・ローヤル演芸劇場」での開催とされる


Circus_Lion_Tamer.jpg



近代サーカスはイギリス人フィリップ・アストリーによって確立され、ヨーロッパからロシア・アメリカへと広がった。従来より見世物として確立していた動物芸、人間の曲芸に加え、アストリーは道化芸という概念を新たに取り入れている。道化芸は19世紀初頭に活躍したパントマイム役者ジョセフ・グリマルディ、ジーン・オリオールらによって現在の喜劇中のふられ役・失敗ばかりして観客の笑いを取るというスタイルが確立され、真っ白に塗った顔にだぶついた服装というお決まりの姿で、近代サーカスでは欠かせない要素のひとつとなった。

Trapeze_Artists_in_Circus.jpg


イギリスが今のサーカスの形を作ったんですね・・・へぇ??ちょっと・・トリビアだった・・・

サーカスに行きたかった理由のひとつに、このビートルズの曲が好きだったからもある
この曲の雰囲気を味わいたかったんだけれどね・・

「Being for the benefit of Mr Kite!」という曲です。



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テーマ : イギリス生活
ジャンル : 海外情報

カンブリア地方ヘ バローイン ファネスへの旅 その1 歴史編

昨日から一泊二日 カンブリア地方へ行って来た


バロー・インファネス(Barrow-in-Furness)という町です。

BarrowInFurness.jpg

西にアイルランドがある海沿いの町です
昔から、造船業で栄えました。主に、戦艦や潜水艦などを作っています。
もちろん、昔ほどではないけれど、今でも大きな工場があり、製造を行ってます

Barrow_tcm31-37290.gif


こういう、島(ウォルニーアイランド)が、海岸線のぴったりくっついている地形なので
造船業に適していたのでしょう・・

町の中心部です。

barrow-street-600.jpg


barrow-restaurant-600.jpg



これは、ドックのある 船のレストランです

Lancashire, Barrow in Furness, Docks


昔はこんな感じでした。

LNWR_Anglia_1920-01.jpg

Lancashire, Barrow in  Furness, Dalton Street 1910s


戦争中は、ロンドンの次に狙われたそうです。
まぁ 戦艦をつくっているんですものね

この小さな町のはずれに、「MIKASA」ストリートという道が、あります
町の人は、マイカサストリートと呼んでいます。
なぜここに、この名前があるかというと・・
その昔、日本の戦艦「三笠」をこの街で作り、その記念にこの名前がつけられました

Mikasa.jpg



これが、戦艦三笠です。


詳しくは・・こちらで・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

三笠は六・六艦隊の最終艦であり、イギリスのヴィッカース社に発注された。
1899年1月24日バロー・イン・ファーネス造船所で起工。
1900年11月8日進水。1902年1月15日から20日まで公試が行われ、
3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。

建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。

3月13日、イギリス、プリマスを出港しスエズ運河を経由して5月18日横須賀に到着した。
初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6月23日に出港し、
7月17日本籍港である舞鶴に到着した。


ビクトリア時代(日本では明治時代)にイギリスと日本でこういった・・貿易が行われて
いたんですね・・

この戦艦三笠は、今でも、横須賀市の三笠公園で見ることが出来るそうです

わたしも・・見に行きたくなりました・・・・
今度帰国したら・・行ってみよう!

テーマ : 海外で育児
ジャンル : 育児

日英友好 音吉さんについて

三浦按針以降、イギリスと日本の外交はどうなったのだろう

三浦按針が日本で亡くなりそれからちょうど、200年後に
生まれた音吉という水夫について調べてみました。

音吉 1819年(文政2年)尾張国知多郡小野浦(現愛知県知多郡美浜町)に生まれる。
水夫であった音吉は、キュウキチ、イワキチと、ともに船で太平洋横断を成功させる。
米国に到着しその後に、商船で英国に渡った。
英国の土を踏んだ初めての日本人と思われるうちの一人、
オトキチは、英国の市民権を取得し、ジョン・マシュー・オトソンという名前を名乗った。
後に、英国海軍の通訳として二回、日本に帰国している。


Otokichi.jpg


その後音吉は上海に渡り、デント商会に勤めた。
その後1849年(嘉永2年)イギリスの軍艦マリナー号で浦賀へ行く。
また、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で
日英交渉を開始したとき、再度来日し通訳を務めた。
この頃にはジョン・マシュー・オトソンと名乗っていた。

その後マレー人と結婚。1862年(文久2年)はじめ音吉は上海を離れ
、シンガポールへ移住し、その地で幕府の遣欧使節団の森山栄之助らに会っている。
1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し
、シンガポールにて病死。享年49。

ちなみに、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、
横浜で入籍許可を得て名前は「山本音吉」となった


飛行機なんてなかった時代に船で旅をし、外国にいくのは
大変であったと思う
今だって、大変なのにね・・

やっぱり誰しも、祖国には帰りたいと思うんだろうなぁ

200年後に按針が生まれ変わったのが音吉だったりしてね。

日英友好の歴史  

前のブログで古い写真を見てたら、歴史を調べたくなった

日英友好・・って1600年頃から記録に残っているようだ

1600年って関が原の戦いをした年ですよね。江戸幕府に
なる頃です。

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年6月16日)
(イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ)は、
江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。

按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。
また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には
按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。
1600年4月19日(慶長5年3月7日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。


WilliamAdams.jpg


江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。
代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に
際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。
また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に
授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、
1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘
、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと
娘のスザンナが生まれている。


ふむふむ・・今から400年も前に、イギリスから日本に来て帰れずに
日本で亡くなったわけですね

この人の物語を映画にしたのが、「将軍」とタイトルで80年代に
ヒットしました。島田陽子が出ていて、印象に残ってます
その映画の中で、島田陽子が、按針役のリチャード・チェンバレンに
英語を教えている場面があったので、UPします。




1620年に亡くなってますので、20年 日本で暮らしたという事です
きっと、イギリスの食事がしたかっただろうなぁ・・
家族にも会いたかっただろうなぁ



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。心の雑記帳みたいなブログです。

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